ゆとりバッシングと見せかけて

昨日は、どうしても適切な題材が思いつかないうちに5時過ぎてタイムオーバーとなった。が、今日になってもとより‘適切な題材’などないと今更気付いた。のでこれからはより一層自由に書いていこうと思う。


今日はバイト中に成人男性向けビデオのカタログを見ていた。念のために断っておくと、これは仕事であって娯楽ではない。店長が一人で選ぶとどうしても偏るので、月に何本かピックアップして上伸しているのだ。こういったものは見たい時に見るからいいので、もしTVが朝からペイチャンネルしか放映しなかったら吐いてしまうと思う。


で、その中のタイトルで「友達にはヒロスエに似てるって言われるけど、その人知らないしw」みたいなタイトルがあった。その後中学生が5人ぐらいで来てわいわいしていった挙句、なにもかりずに帰って行った。


つまんねえんだよ、と大人げなく言いたい。そういう若い層に色々影響を与える年長者の義務とかさておいてまず文句を言いたい。私としてはどうしたって年長者と話す方が俄然面白い。脳ミソを食べたら他人の記憶が手に入る能力(‘ちから’と中二っぽく読む)なんかがあればむしゃむしゃ食べると思う。


縄文土器は食器で貝塚はゴミ捨て場だけど、それだって数千年・数万年たてば博物館に飾ってありがたがられる。歴史というものが偉大であるということは人間も同様だ。いわんやそこに積み立てられたものが質の高い歴史であれば。


思春期の葛藤や、青春期の傲慢、青年期の挫折、中年期の狡猾、老齢期の悟り、こういったものが目の前の人間の今現在につながっていると考えると、これはもう一冊の歴史書と等価値といってもいいはずだ。その人がどういう教育を受けて、どういった事業をなし、その子供はどのような人間に育ったのか。何を見てどう決断してきたのかということは、一つ一つは平凡かもしれないが一代史として聞けばかなりおもしろいはずだ。


以前実家に帰った時に両親と話した時に昭和の大洪水時に浸水して叔父さんに背負われてやっと避難したこと、小学校時代の休み時間の聞いたことない遊び、大学闘争時に持ち回りの責任者やったら親族会議になったこと、今の会社の立ち上げに失敗したら離婚して借金は一人で背負うつもりだったことといったおもしろいことを聞いてそう思うようになった。


返す返すも残念なのは父方の祖父が亡くなったことで、この人は軍学校出て士官になって、海外に出兵して、帰ってきて職がなくて肉体労働について、父親と叔母を育ててとおもしろい歴史をもってそうだったのに、くわしい話を聞かないままだった。


その祖父の形見としてもらったコートは、祖父が昔の人にしてはかなり背が高かったので私が着ると少し大きい。そして昔の仕立てのせいかなぜかすごく重くて3・4kgあるのではないかと思う。これを着ているとさすがに私も厳粛な気持ちにならざるを得なくて、このずっしり感こそが私と祖父との人生の密度の差かなどと似合わぬことを考えてしまい反省する。


話の出だしと打って変わって湿っぽくなってきたのでここで結ぶ。さて自分で人生の密度を高めるのはすでにあきらめかかってるので、他人の人生を盗み聞いて価値を上げようと考えている次第。読書好きもその一環かもしれない。お盆に帰省する人は両親・祖父母と話してみるのも一興と思いますよ。母方の祖母の旧姓とか意外と知らなかったりするもんだし。